緋色の研究

ご容赦下さい。

書評:ロリババアが寝取られていた事実を今わの際に伝えられて看取られる話(ロリババア寝取られ看取られ音声)

あるいは、いちレビュアーとして一言言っておきたいこと。

 

 

 登場人物

緋色:当書評の語り部
らすね:巷で話題の『看取られ音声』の脚本
KMIF:『ロリババアが寝取られていた事実を今わの際に伝えられて看取られる話』の作者
犬侍:エロ小説書き・スペシャルサンクス

 

 

 

正直に言って、この書評をどういった切り口で書くのかには少々悩んだ。

もちろん適当な事を書く気は無いのだが、私にはこれらの作品を一刀に断って論じてやる自信も無かったからだ。

 

そう、切り口だ。

 

論評とは、言うなれば作品の解剖である。

作品というマウスを解剖して中に何が詰まっているかを理解し、それらを最もわかりやすい形で提示する、この一連のプロセスとそれによって完成した展示標本こそが論評である。その意味で論評はそれ自体も1つの作品なのである。

それ故に多くの論評はわかりやすく、視て面白く、そしてけして触れる事が出来ぬように作られている。それは読者のニーズでもある。つまり、論を一刀に両断し、快刀で乱馬を断ったような、触れば崩れる鮮やかで精巧な断面図こそが人々には好まれる。

しかし、論評それ自体が同時に作品でもあるとすれば、それ故に全ての論評は当然に元々の本質から外れる。それはさながら、標本にされたマウスが既に事切れて生を失っているように。

 

そして、それを幾ら見たところで、アクリルの箱の前の人々は野山を軽やかに走り回る野鼠の姿には永久に辿りつかない。

 

 

 

先日、友人のらすね先生が、かねてより構想を温めていた『看取られ音声』を販売した。

 

www.dlsite.com



 

そしてまた同時に、作品の感想がバズった。

 

 

 

3500RTである。多いに結構。好ましい限りだ。

販売数は未だ300程だが、私は販売前に最終的には700〜800程度は行くだろうと予想をしていたので恐らくまだまだ販売数は膨らむだろう。

ところで、流石に3500もRTをされると普段は交わらない界隈にも目が届く。

普段は交わらない界隈にも目が届くということは、普段は交わらない人たちが知らない事について知らないままに知らないながらに述べるという事だ。

 

 

 

……別に講釈を垂れたい訳ではない。

私の方が文脈を知っていると(正直にいえば思わなくもないが)自慢をしたい訳でもない。

更に言えば、私の言いたい事はわざわざ改めて言う必要があるような事ではない。

 

 

看取られ音声』は作品である。作品であるという事は人々に求められ、同時に人々に消費されるという事だ。

消費されるという事はこれに対して論じたり茶化したり大喜利が始まったり感想が書かれたりする訳だ。

消費は作品の本質である。作品は消費される事で人々の手の中でエネルギーに変わる。そうしたエネルギーは時に人々を焚き付けて社会に変革を与え、あるいはそこまで大きくならなくとも、作品によって夕飯を作る気力が湧いてきてコンロに火が灯ったりする。

エネルギーは一過性である。燃やして出た熱エネルギーを使っても、燃やした物は元には戻らない。標本にされたマウスも死ぬ前には戻らない。

そしてそれは、作品を消費して出来た感想が作品には戻らないのと同じ事だ。

感想は元の作品ではないし、元の作品にもならない。なぜならそれらは本来的に根を別にした全く異なる物だからだ。マウスの解剖標本を幾らじっくりと眺めた所で、野山を走り回る野鼠の姿はその長い尾っぽすらも掴めない。

 

 

看取られ音声』に込められた意志は私にはわからない。

意図も、意義も、意向も何もわからない。

私はらすね先生をそれなりに長らく興味深く見てきたのでキリシタンである事も本質主義を気取っていながら虚無主義な現代の主流の風潮に疑問を呈している事も緑のルーペ愛好家の同胞である事も現代の風潮に一石を投じる気が無くもなかった事も本作が本来的にはいつものオタクの悪ふざけの延長である事も知っているが、彼がこの作品に何を込めたかなど幾ら考えた所で私の想像の域を出る物ではない。

本質的構造の言語による分解などは書いた本人にすら出来る事ではないし、そもそもそんな事は人間に出来る事ではない。だいたいにして作品本編より長い書評など書評の意味が無いし、思い出すとこの書評は『看取られ音声』の書評ではない。

では言いたい事とは何なのか。

つまるところ、所詮論評なんぞは幾ら言葉を尽くして講説を垂れたところで恣意的な切り取りにすぎないのであって、こんな物を幾ら見聴きしたところで作品の本質などには迫れないのである。

 

 

 

 

 

 

3500RTである。多いに結構。好ましい限りだ。

販売数は未だ300程だが、私は販売前に最終的には700〜800程度は行くだろうと予想をしていたので恐らくまだまだ販売数は膨らむだろう。

ところで、未だ販売数は未だに350に届いていない。つまり、このツイートをRTした十人に一人も『看取られ音声』を買っていないのだ。

作品を買っていない、つまり、野鼠を見た事の無い人々が、アクリルの箱の前でマウスの標本やら断面図を見て、野山に走る野鼠を捕まえた気になっているのである。

見もしないで作品の本質を語るとは、つまるところそういう行為だ。

 

 

看取られ音声』が画期的かどうかは私にはわからない。

現代に一石を投じるような物かも、本が出る程に衝撃的かも、現代のマザー・テレサなのかも、極めて興味深いがあまりに悲しすぎる結末なのかもわからない。

それらは私にも、作者にも、そして恐らく本質主義を気取っている彼らにもわからない。

私にわかる事は、ただ作品を見聴きして素直に自分が感じた事だけだ。

そしてそれは恐らく、この書評を読んでいるあなたも。

そういう理由で、私は普段からレビュアーの革を纏って、皆に少しでも作品への興味を持って貰うべく筆を連ねている。

ある作品の事が読まない観ない聴かないでもわかるなんて、そんな事はあるはずがないのだから。

 

 

 

 

 

……ただ、私はそのように論じる人々を責めたてるつもりもない。

我々が消費の一翼であり、それ故にわかりやすく切り取られた、鮮やかで精巧な断面図こそを好むのもまた事実だからだ。

 

 

 

本題に入ろう。

KMIF先生の書かれた、『ロリババアが寝取られていた事実を今わの際に伝えられて看取られる話』(以下寝取られ看取られ音声)という作品がある。

 

www.pixiv.net
f:id:sabadora:20190716203951j:image

 

最初に言っておくとこの作品はらすねムーブメントとは全く関係の無いロリババア文脈で発生した作品であり、シンクロニシティ的にほぼ同時に世に出て来た作であって『看取られ音声』とは名前以外全く関係無い。

更に言えば看取られ音声としての完成度は『看取られ音声』方が上だし、『寝取られ看取られ音声』は寝取られと看取られを上手に混ぜ合わせて調理出来ているとは言い難い。

寝取られ看取られ音声』の主題は死よりも間違いなく寝取られであり、看取られ要素は衰弱した男に喋らせないための舞台装置にすぎないし、構造的には男が衰弱している代わりに送って来られたビデオレターであっても作品の内容はあまり変わらないだろう。

その意味で『寝取られ看取られ音声』は所詮一過性のコンテンツであり、間違いなくそれ以上の何かではない。

 

 

しかしながら、『寝取られ看取られ音声』はR18作品としては間違い無く画期的で衝撃的である。

R18小説家の界隈において邪神と名のしれた犬侍先生をして「地獄みたいな性癖」と言わしめたこの作品は、一過性でこそあれ間違い無く初見の人たちに台風のような度肝を抜く。

一過性であるが故にこの作品を幾ら論じた所で世に何かしらの変革をもたらす事は無いし、それ故にこの作品に触れた人たちはその凄まじいまでのエネルギーを以てそれぞれが好き好きにこの作品を論じたり茶化したり大喜利が始まったり、あるいは私のように感想を書いたりしてたのしめる。

そして何より、この作品は一過性の消費をして良い一発ネタかつ無料公開の気軽に10分で読めるR18コンテンツ作品であり、それは言うなれば野山を走り回る野鼠のエネルギーそのものなのだ。

この作品はロリババア寝取られ看取られ音声という言葉の字面が全てであり、それ故に「わかりやすく切り取られた、鮮やかで精巧な断面図」はこの作品のほぼ全てを意味しているのである。

 

 

よって、この闇の作品『ロリババア寝取られ看取られ音声』は、それの作品としての出来とは関係無く、それが存在しているという事実に十二分の価値があると私は思う。

 

 

 

 

この作品の衝撃はこんな所で言葉を幾ら重ねた所で言い表せるような物では全くない。

なのでこの書評を読んで少しでも興味が湧いたなら、是非とも作品を読みに行き、そして出来れば見える場所に感想を書いてあげて欲しい。

現状でこの作品を新しいムーブメントである看取られ音声として評価している人は、観測範囲に僕を合わせても数人しかいないのだ

 

 

 

 

 

 

……それとついでに言えば、『寝取られ看取られ音声』は、光の『看取られ音声』の存在を知って適当を吐かしている世の阿呆どもの顔面に「光ある所の影」として叩きつけるテニスラケットとしても十分な価値がある。